回顧録

第1回 岩谷 直治 様 (岩谷産業創業者・名誉会長)

1987年(昭和62年)2月

あの日 あの頃

往時(ひと昔まえ)は日毎に茫々の彼方へ消えゆくのが常でありますが、日鉱液化ガス㈱創立当時の世相や背景といったものは、意外にいまもなお忘れ難い映像として、記憶の底に沈んでいるものが多くあります。なにしろ昭和39年創立といえばふた昔前のことであり、当時はLPガス事業も草創期から漸(ようや)く躍進期に移ろうとする頃であり、業界は明日への期待と緊張にピリピリするような空気の中で業務処理に忙殺される毎日が続いておりました。
日鉱液化ガスが日本鉱業、岩谷産業、伊藤忠商事の3社共同によって設立されたのも、加速度的に拡大する市場に対応するためのものであり、その意味においてLPガス輸入とその販売を目的とする新会社の設立はまことに時宜を得たものでありました。
日鉱液化ガスが創業した昭和39年という年は、東京オリンピックが開催された年であり、イワタニとしましても大会聖火台にプロパンガスを提供するなどマスコミの話題にもなりましたが、それらとは違った次元でガスの輸入という新事実は、日頃需給関係に気を使うあまり身の細る思いをしていた流通業者にとって、まさに早天の慈雨ともいうべき朗報でありました。
昭和41年4月、イワタニは日鉱液化ガスが輸入するLPガス、年間23万トンの60%を販売することになったのを機に、設備投資5カ年計画を発表し、計画期間内に新たに充填基地60カ所をはじめとする施設の整備拡張を行うことを取り決めました。当時、既に大証二部市場に上場されていたイワタニは、企業戦略として全国縦断の拠点づくりを意図しておりましただけに、日鉱液化ガスの誕生は、安定供給の建前からなんとしても力強い後ろ盾でありました。
昭和41年11月、待望のLPガスタンカー「山秀丸」が日本鉱業水島製油所の専用埠頭に横づけされ、運ばれてきた2万トンのLPガスは同所構内に設置された冷凍貯蔵タンクに荷揚げされました。

あとは我々の販売努力如何ということになりますが、イワタニはこの組成率100%のプロパンにブランドをマルヰプロパンPー100と名付け、市場にその真価を問うことになりました。
LPガス事業を当社の主力部門として経営戦略を進めた成果は顕著に現れ、昭和37年8月、株式上場時の資本金1億8,700万円は、4年後にして資本金30億の中堅企業としての体裁(ていさい)を整えるにいたりました。これもひとえに日鉱液化ガスという安定したガスソースがあればこそと、心から感謝の念を深めております。

人の一生は数々の出会いを積み重ねたものといいますが、企業も同じことではないかと思います。かりそめの出会いにも運命の転機となるような大きな結果をもたらすことがあります。私がプロパンガスを知ったのは、昭和27年、富山において高圧ガス技術者の集会があったとき、偶々(たまたま)、講師の1人が「ガスの缶詰」という耳新しい表現で、プロパンガスのことを語られたのがきっかけでした。
それは私にとってまったく天啓(天からの啓示)ともいうべき重い意味と響きを持つ言葉でした。
私は商人として身を立てて以来、いつかは大衆社会のニーズにつながるものを扱ってみたいとの念願を、長年の希望として胸に抱いてまいりました。それまで酸素、カーバイド、アセチレンといった生産材としてのガスは扱ってきたものの、一般生活者に密着した消費材とは無縁の状態であっただけにプロパンガスの存在を知ったときは、さながら天の福音を聞く思いがしたといっても決して過言ではありません。
情報化時代の今日ではありますが、情報は分析して取捨されてこそ、その輝きを増します。
私は早速、講師の報告をこの眼で確かめるべくイタリアへ飛びました。イタリア北部のポー河流域には豊富な天然ガス田があり、ミラノやジェノバといった都市や周辺の集落では、この天然ガスを容器に詰め、家庭用燃料として利用しているのです。私はやがてくる日本においてのプロパン普及の未来図を想像して、いざやらんかなの逸(はや)り心をどうにも押さえることができませんでした。滞在中、イタリアの空が吸い込まれるように青かったことが、いまもなお鮮やかな印象として残っております。
因縁ともいうべきプロパンガスとの出会いを持った私は、新しい世界が開けた思いで、昭和28年、憑つかれたようにその事業化に取り組みました。自分がやらなければ誰がやるのだといった使命感のようなものに強く迫られ、それもまったく未知の分野であっただけに、その後は寝食を忘れる思いで事業の展開に打ち込んでまいりました。

当初は帝国石油の秋田八幡油田から貨車輸送されてくる現在のタンクローリー車に換算して、月間僅か7台分を10キロ容器に詰め替え、傘下の販売店へ流すといった状態でしたが、やがて需要が爆発的に増えるにつれ、供給面が急速に逼迫してまいりました。やむを得ずアメリカから50トンばかり緊急輸入しましたが、はからずもこれはわが国におけるLPガス輸入の第一号でもありました。こうした市場の日を追うてのブーム化に大手企業が座視する筈もなく、業界への新規参入が相次いでおこなわれたことも特筆されるべき現象であったと思います。当然そこにはエネルギー革命を迎えての戦国時代ともいうべき熾烈な競争が繰り展げられましたが、やがてそれも時日の経過と共にきびしい淘汰の原則が働き、業界の混迷もいつとはなく沈静化の方向へと落ち着きました。

後年、日本通運の福島社長がプロパン事業の挫折について語られましたが、原因の第一は容器管理の見通しを誤ったことにあると泌々(しみじみ)述懐されました。また石油会社でプロパンを手がけたところも、同様に容器管理の不馴れから経営に躓(つまず)きをきたしたということを仄聞しております。その点、溶材業者として多年にわたり豊富な経験を蓄積してきたイワタニは、プロパンを扱う時点において、安定供給と容器管理の徹底を経営の2大原則としたため、前車の轍を踏むこともなく今日に至ったことは何よりの幸いとするところであります。
手元の記録によれば、昭和38年10月8日、LPガス元売中央協議会創立総会において、会長に東京液化ガス社長安西浩、副会長に岩谷産業社長岩谷直治ら4名選出とあります。都市ガス会社の最大手、東京瓦斯の副社長である安西氏が、競合関係にあるLPガス新団体の会長に選ばれたことは、一応周囲に奇異の感を与えぬでもありませんでしたが、同氏はミスターエネルギーとの別称があるように、一方においては東京液化ガス社長としての顔を持たれ、さらに政府の諮問機関である石油審議会の委員として三位一体の活躍をしておられる方であります。楽屋話になりますが、安西氏担ぎ出しについては私なりの想い出があります。某日、前出の日本通運の福島社長が訪ねてこられ、LPガス元売業者の団体をつくり、あなたが会長ポストを引き受けてくれませんかと、話を切り出されたことがあります。私はとてものことではないとご辞退申し上げた後、ご趣旨はまことに結構ですから、東京に行かれて然るべき方にお頼みになり、会長が決まるようであれば私も参加させていただきましょうと、お約束したことがあります。

以心伝心というべきか、その後福島さんは熱心に安西さんを説かれ、安西さんも快諾されて会長に就任されましたが、以後供給メーカーとの橋渡しやその他の折衝面で、抜群の指導力を発揮していただくようになりました。業界としましても同慶至極といわねばなりません。

それにしても、熟成したLPガス事業の今日を見るにつけ、出会いというものの不思議さを考えずにはおられません。安定供給を意図してのガス輸入を動機に、日本鉱業さんとの間に結ばれた信頼の太い絆は、私の事業に賭ける夢を一層大きく膨らませ、身内の血潮の湧き立つような情熱を覚えたものであります。まさに日本のLPガス事業の育成に大きな手を差し伸べていただいたという意味で、日本鉱業さんには感謝しても感謝しきれないものがあります。
現在のLPガス普及世帯1,900万戸という数字は、都市ガスの100年におよぶ普及率を大きく上回り、カロリー計算にしてLPガスは都市ガスの1.6倍という実績を誇っております。誰があの昭和30年当時の過当競争時代に、今日の隆盛を予測し得たでありましょうか。
私ども岩谷産業は、21世紀をめざすマルヰグループとして感性時代を先取りする自由な発想を前提に、市場の創造をたくましく進めてまいりたいと思います。日鉱液化ガス㈱の一層のご理解とご支援を切にお願いする次第であります。 (以上)

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